空目
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「よぉ、兄ちゃん。金持ってねぇ?」
クチャクチャとガムを噛んでいるような音を間に挟んだ若い男の声が耳に入って、男は思わずそちらに注意を向けた。見ると、だらしなく制服の上着を羽織、髪を茶色に染めた高校生がネクタイをぶらぶらと首に引っ掛けた状態で立っていた。それも四人。足の先から耳のピアスまで、皆が同じような格好をしている。髪の長さと身長でかろうじて個々が判別できるものの、それを個性と主張するならあきれてしまうところだ。
「持ってるぜ」
そんな粗悪なコピー品のような高校生に囲まれているのは背の低い、艶やかな黒髪の少年だった。男の目からは背中しか見えないが、制服ではなく細身の黒いパンツと上着はアイボリーのシャツ、それに重ねるようにして黒の半袖ジャケットを羽織っている。
「貸してくれよ」
「後でちゃんと返すからさぁ」
男はこれから吸おうと思って口に咥えていた煙草を胸ポケットに入れてあった箱に戻した。面倒だが、このまま放っておいたことが上に知れたらもっと面倒になると思ったのだ。
背の高いニヤニヤ顔の高校生達に囲まれ、絡まれている背の低い少年は考えるように前で腕を組んだ。素直に渡してしまうのも男として情けないと思うが、このご時世下手に反抗することも勧めない、と男は一歩踏み出しながら思う。護身用と言う名目で刃物を持ち歩くことをなんとも思わない輩はどこにでもいるのだ。はたして前者と後者、少年がどちらをとったかというと後者の方だ。
「へぇ? 利子つきだろうな」
小生意気そうな高めの声がそう言った。その声にわざと相手を挑発するような調子がこめられていることを、男は感じ取った。そして男が感じ取ったことを嘲りには敏感な高校生達も感じ取ったようだ。
「今つけてやってもいいぜ、ちょっと痛い利子をさ」
一人がそう言って手首の骨を鳴らす。残りの高校生達もお互いの顔を見合ってニヤニヤと笑った。迫力はないが、本人達はそれで脅しているつもりなのかもしれない。
「ふん。お前ら、高校生か?」
「お前はまだ中学生だろ? 育ちよさそうな顔してさ。どこの坊ちゃまだぁ?」
下卑た笑いを漏らす高校生達は、まるで女に絡むはた迷惑な酔っ払いのようだった。少年は髪に触れようとして伸ばされた一人の手を五月蝿そうに払って毅然と答えた。
「育ちは確かに良いかもな。でも、ちゃんとした利子つきじゃないなら金は貸せないぜ。金が欲しけりゃ自分で働くか、禁煙して煙草代を節約するんだな、青少年ども」
良くぞ言った、と素直に賞賛できる的確な言葉ではあるが、同時に時と場合を考えろと叫びたくなる対応でもあった。まず金を持っている、と答えてさらに育ちが良いことを認めてしまっては相手が諦める可能性をぐっと低めている。おまけに値上がりした煙草代は確かに高校生達の懐を寂しいものにしたことに一役買っているのだろう。さらに言うなら図星を指されると痛い高校生は、自分より年少の相手に青少年とは決して言われたくないだろう。
「何を偉そうに……!」
相手が怒るのも無理はない。やはり面倒なことになった、と思いつつ男は騒ぎの渦中へ飛び込もうとした。すでに怒りを抑えることをしらない高校生の一人が拳を上げて少年の胸倉を掴んでいた。それを止めるには間に合いそうにない。子どもとはいえこんな時間に繁華街を出歩くような男だから一発くらい殴られても構うまい、と男は無責任にも思った。けれど囲まれてリンチにされては可哀相だ。男はとりあえず声を上げて高校生達の気を逸らそうとしたのだが、そこで冷静な少年の声が聞こえて思わず立ち止まった。
「覚えておけ、何事も先に手を出したほうに責任があるんだぜ」
胸倉を掴まれていた少年は静かにそう言った。そして自分の胸倉を掴んでいる高校生の手を掴むと、あっさりとその高校生の体をひっくり返した。腕一本で、だ。唖然としたのは何も男だけではない。少年を囲んでいた高校生達はひっくり返されて腰を打ちつけた当人でさえしばし呆然として身動きひとつとれなかった。
最初に我に返ったのは腰をコンクリートに打ち付けた高校生だった。彼の痛みを訴える声で、他の三人の意識が復活した。彼らは平然と自分達の中心に陣取ったままの少年に次々と襲い掛かった。まず、最初の一人が拳をストレートに少年の腹めがけて繰り出す。少年はその拳を、体を少し右にずらすことで避けると、無防備に伸びた腕を掴んでぐっと下に押した。するとあまり力を込めているように見えなかったのに、腕を掴まれた高校生の体はやはり綺麗に一回転する。そしてすでにコンクリートの上でうめいていた仲間の上に落ちた。
続いて危険なハイキックを仕掛けてきた相手には素早く身をかがめ、こちらは低い姿勢から軸足に払いをかけた。ハイキックのために足を上げてバランスの悪くなっていた相手は少年の足払いに難なく身を崩す。しまいには身を屈めていた少年の上に後ろからのしかかってきた相手を一本背負い。そのままそいつの腕を掴んで寝技までかけた。流れのついたあまりに鮮やかな手並み。少年は明らかに場慣れしていた。
「あぁ〜あ。こんなに雑霊つけて……。まぁ、日頃の行いが問題だな。体も硬いし。こんなところでカツアゲ行為してないで、健全に部活動でもしろよ、高校生。……おい、逃げてんじゃねぇよ」
顔に似合わぬ恫喝でもって、少年は情けなく逃げようとしている高校生を呼び止めた。
「は、はいっ!」
非力に見えた少年にあっさりと倒されすっかり怯えてしまったのは、足払いをかけられた高校生だった。いまだに寝技をかけられている高校生はもう泣き出しそうだ。
「煙草寄こせ」
短く少年が言った。男からもようやく顔が見えるようになった。中学生か、いっても高校入学したばかりかと思われる幼い顔。眇められていても大きな瞳と、それを縁取る長い睫はまるで少女のようだった。その少女のような少年に脅されて、逃げ出しかけていた青少年は懐から煙草の箱を取り出し、膝をついて中から一本恭しく差し出した。しかしその一本はぴしゃりと跳ね除けられる。
「馬鹿、箱ごとだ。全員!」
ずいぶん強欲だな、と男は正直思った。そんなに煙草を回収したところで、持ち運ぶのに苦労するだけではないだろうか。それとも、その場で一箱以上吸ってしまうつもりなのかもしれない。高校生達も一人でそんなにどうするのだろうかという疑問を顔に貼り付けて、それでも剣のある目で睨まれれば仕方なしとそれぞれ自分の持っていた煙草を差し出した。
「どうして一人で二箱も持ってるんだ、お前は!」
尻のポケットと上着から一箱ずつ取り出した青年は、正直に持っているものをすべて差し出したというのに、小さな拳で頭を殴られた。
「すっ、すんません」
鼻を鳴らして少年は寝技をかけていた高校生の上からどいた。そして回収した煙草の箱を片手に載せ、おろおろと立ち上がる高校生達をねめつける。
「お前ら、今度こんな時間にここで俺に会ってみろ、今日くらいでは済まさないぞ」
分かったか、と訊ねる少年に、高校生達は必死で首を上下させて答えた。その情けない様子に少年はまた鼻を鳴らす。
「分かったらさっさと家に帰れ!」
尻を蹴り上げられそうになって、高校生達は無様によろけながら駆け出した。
「お、覚えてろ!」
十分に距離を保ってから投げられた捨て台詞に、少年が怒った様子は全く見られなかった。ただ眉を軽く上下させると、煙草を積み上げていない方の手をひらひらとやる気なさげに振っただけだ。
「あぁ、はいはい。覚えていてやりますとも……寂しがりやどもが。ったく、定番時代劇のクライマックスシーンでもあるまいし、去り際の言葉くらいもっと考えろよ」
全くだ、と同意しつつ男はようやく少年の側まで近づいた。慌てて逃げていく高校生達の哀れな姿を見送っている少年は、メーカーの違う煙草の箱をしっかり五箱積み上げてバランスよく片手に乗せていた。男は少年に十分近づくと、背後から声をかけた。
「で? どうするんだ、その煙草は」
男としては不意打ちを狙ったつもりだったのだが、声をかけられた少年は男の存在に驚くことはなかった。ゆっくりと男の方を振り返ると、男を見上げて悠然と微笑んだのだ。
「高みの見物とは、趣味が悪いな。刑事さん」
不意打ちを食らったのは男の方だった。決して警察だと分かる服装をしているわけではない。そして顔だって実直そうな警察のイメージとはかけ離れた、いわゆる悪人面だ。どちらかといえば、五人に三人は男を見てまともな職についていないと判断するだろう。警察がまともな職種かどうかはこの際置いておいて。
「……何故俺が刑事だと?」
男が尋ねると、少年は猫のように目を細めて笑った。
「そういう顔をしているからさ。刑事でなければヤクザだな」
そんなわけはないが、まるで男が周囲にいつもそう言われていることを知っているような口調だった。男は正直面食らった。少年には男よりだいぶ年下の癖に、妙に落ち着いた、というか不思議な雰囲気がある。
「少年課じゃないが、一応名前と住所を教えてもらおうか。あれでは、君の方がカツアゲしているようにしか見えん。時間も時間だしな。家出か?」
尋ねると、少年は案外素直にポケットから財布を取り出し、その中から身分証明となるものを抜き出して男に渡した。
「ほら、名前と住所。あとこの煙草も刑事さんにやるよ。俺も家族も吸わないんでね」
そう言って少年は、先ほど高校生達から取り上げた煙草を箱ごと男へ押し付けた。やるよと、言われてそれでは、ともらえるものではない。未成年が持っていたとはいえ、没収した品を刑事が自分の懐に入れていいわけがない。けれど確かに没収された煙草の中には、男が愛飲している煙草も含まれている。のきなみ煙草が値上がりする中で、男のようなヘヴィ・スモーカーは煙草の量を減らしてそれに対応している状態だ。だから、ほろりと手元に舞い込んできた煙草をものにできるのは臨時収入並みに嬉しいのだが。
実質俺が没収したわけではないから、もらってしまっても構わないのか?
没収というよりも脅し取ったこれもまた未成年らしき少年は、自分のために取ったわけではないと言うのだし。
「あ? じゃあ何のために煙草を取ったんだ?」
自分で吸うわけではなく、まして誰かに売りつけるつもりでもない。こうして男に押し付けるだけの邪魔なものならは、初めから没収などしなければ良かっただろうに。そこでようやく男は渡された身分証明に目を落とした。
「……鞍馬 四季……二十一歳…………?」
驚いたことに、渡されたのは学生証ではなく普通運転免許証だった。しかも生年月日から計算した年齢はすでに成人に達している。
「住所も記録するかい? 刑事さん。悪いがこれから仕事なんだ、早くしてもらえると嬉しいな」
高校生に対峙していたときと変わらない不遜な態度。男は思わず免許証の写真と本人とを何度も確認してしまった。
「写真が別人だとでも?」
男の反応に、初めて少年は――いや、成人しているのだから青年だ――苦笑した。写真は偽物ではない。確かに免許証に写っている人間と、目の前の人間は同一人物だ。ただ写真も実物もえらく童顔だというだけで。成人しているというのなら確かに高校生は青少年扱いだろう。腑に落ちた部分もあるが、どうにも心から納得できない部分もある。
「いいや……。しかし、あれは暴行に近い行為だぞ。仕事は何だ」
男に言われると青年は苦笑した。その苦笑は自分のしたことが暴行に近いと言われたことに対してか、それとも仕事について言及されたことに対してなのか。
「ちゃんと危ないところは外しているんだ。教育的指導と言って欲しいね。仕事のことは……おっと、失礼」
どうやら苦笑は両方に対してのものだったらしい。言葉の途中で断りを入れ、青年はポケットから携帯電話を取り出した。マナー・モードにしていたようで、着信音の代わりにバイブレーションの鈍い音がしている。青年は折りたたみ式の黄緑色をしたやけに可愛らしい携帯電話を片手で開くと、通話ボタンを押して電話を耳に近づけた。
「当主?」
トウシュという言葉が、最初どんな漢字なのか男は頭の中で変換できなかった。そういう名前なのかと思ってしまったくらい、一般には聞きなれない言葉。そして何となく、幼顔の、けれど今時の若者という印象の青年には似合わない言葉だと思った。
「えぇ、もうすぐ着きます。……あのね、俺はこれでも一応成人しているんですよ。あぁ、はい、分かっています。寄り道はしません。…………は? 新しい石鹸は洗面台の上の棚です。着替えたものをそのまま洗濯機に入れないように。後で俺がやります。……そう、先に寝ていて結構ですよ。えぇ……それでは」
当主というからには相手は目上の人間だろうに、やけに親しげな雰囲気を漂わせる台詞だ。そして会話の後半や妙に所帯じみている。一体どういう関係なのだかさっぱり予想さえつかない。
男が首を捻っている間に会話は終わり、青年は携帯電話を切って折りたたみ、元のようにポケットへ戻した。そして中断した仕事の話はそのままに、男へ向かってにこりと笑いかけて言った。
「丁度良い、刑事さん。スウィート・ハニーっていうベタな名前の店、知ってる?」
知っているかと訊かれて素直に頷くほど男は真っ直ぐではなかった。見た目年齢不詳、そして仕事もはっきりとしない青年に抱く不信感を隠すことなく、男は眉を顰めて訊ね返した。
「……二週間前に全焼した店か?」
「あぁ、そう。死人が出てるだろ? ちょっと用があるんだ。営業時間にしか出てこない律儀な人らしいからこんな時間になったけど」
青年の台詞は、後半になるほど男には意味が理解しがたい内容になっていく。営業時間にしか勤め人が出てこないのは当然だろう。しかし、問題の店は全焼してからそのまま次の改装工事などは行われていない。営業時間に出てくる人間など誰もいなくて当然なのだ。そんなところに用があるというのか。
「……用があるって、死人にか? 死体はもうないぞ。遺族か何かか?」
「その遺族に頼まれたんだよ」
そこで何となくピンときた。青年の仕事についてだ。自分で遭遇したことは初めてだが、同僚や上司の中には捜査中に邪魔をされたことがあるという人間もいる。
「お前、拝み屋の類か?」
自然と非難するような色が含まれる口調に、青年は器用に眉を上げた。そんな反応には慣れている――というよりもうんざりしている――と言わんばかりの反応だ。
「詐欺で逮捕するなんて言うなよ。店、知っているのか? 知らないのか?」
拝み屋だからと言って、すぐさまこの場で逮捕できるわけでもない。そして問題の店は知っている。別件の張り込みで、全焼する以前に何度か前を通ったことがあるからだ。
「……知っている」
「じゃあ、教えてくれ。都民を助けるのも、警察の仕事だろ?」
そう言われてはぐうの音も出ない。真面目な警察官とは言いがたい男だが、真面目な目的があってこの界隈で張り込みをしていたわけではない。邪魔な同僚を置いて、一人でいる時間が欲しかっただけなのだ。本来単独行動は禁じられているのだから、不真面目な行動をとっているとしか言いようがない。これでさらに都民の頼みを退けることなどできるわけがない。
男は一応警察官としての義務を果たすことにして、青年を連れて問題の店が入っていた四階建てのビルの前まで案内した。様々な店がひしめき合うようにして連立するこの界隈で、いい年をした男が一人でこの時間にうろついていればもちろん客引きの声がかかる。けれど今日は声をかけられる数が格段に少ない。それはどうしてなのか。男はついと考えてからすぐに出た結論に、後ろをちらりとみやって小さく舌打ちした。
ひとりで歩いているわけではないからだ。
後ろに一定の距離を保って――それでも男の連れであると分かるくらいの距離で――ついてくる青年がいるせいだった。これが男と同じようにこの界隈によく出没しそうな顔をしている連れであれば、二人一緒に声をかけられるはずだ。けれど、青年は二十一には見えない童顔で、しかもすらりと整った――青年に言えば間違いなく一本背負いされるだろう――男娼としてやっていけそうなスタイルをしている。男と青年が“そういう”連れであると勘違いして、だから今日は客引きの声がかからないのだ。
「……あぁ、ここだ。サンキュ」
周囲にそう見られていることなど考えもしないのか、青年は案内された雑居ビルの前で立ち止まり、一度上を見上げた。問題のビルは酒だけではなくて軽食も出すような店だったので、もちろん店内にキッチンがあった。出火はガス漏れが原因であろうということで事件は解決している。ガスに引火し、その際爆発が起きて二十代の女性が一人死亡している。他に店内にいた者も重軽傷をおって、中にはいまだ入院生活を余儀なくされている者もいるはずだ。
しばらくビルを見上げているだけだった青年は、問題の三階部分へと向かって階段を上り始めた。男は黙ってその後を追う。
「って、付いてくるのか?」
青年に続いて階段を上る男に、青年は戸惑ったように振り返って尋ねた。男は自分でも何故こんな行動を起こすのだろうと思いつつ答えた。
「俺が付いていっちゃ仕事ができないのか?」
「出来ないってことはないけど……。付いてきても俺の一人芝居にしか見えないと思うぜ」
肩を竦めた青年に、むしろそう見えなくては困ると男は心の中で反論した。黙ったままの男に、青年は物好きだねと言ってそれだけだった。今度はもう立ち止まることもなく階段を上って、事件後に張られた入り口のテープをくぐって焼け焦げた店内に入っていった。男もそれに続く。ぐるりと店内を見回しても、誰もいない。当然だった。けれど、青年は違った。
「あぁ、いたいた」
爆発の衝撃と熱で変形したキッチンの側に立ってそう漏らしたのだ。誰が、どこに居るというのだろう。炎で真っ黒に染まった店内には、もちろん青年と男以外の人間はいなかった。
「……谷口智美さん? ……あぁ……そう、源氏名はユリなんだよな。……うん、そいつを恨む気持ちは分かるよ。でも、君はここにいちゃいけない。そいつはいずれ裁かれる。……あぁ、熱くて苦しいだろう? すぐに楽にしてやるからな……」
青年があらかじめ断ったように、男には青年がただ虚空に向かって一人芝居を演じているようにしか見えなかった。虚空に向かって話しかけ、そしてまるで誰かの返事を聞いているような微妙な間を空けて、また話を続ける。会話している。相手がいなくてもそう見えるのだから、演技だとしても見せることに非常に慣れた演技だと言うしかないだろう。
青年はやがて、男には日本語として聞き取れない言葉を呟き始めた。指は奇妙な形に組まれて、長い睫で縁取られた瞼は閉じられている。一瞬、ほんの一瞬のことだけれど、青年の周りがぼんやりと青く光ったように見えたのはもちろん錯覚なのだろう。
疲れている……そうだ。
最近まともにベッドで眠っていない。肩も重いし、疲れているから見た錯覚だ。男は自分にそう言い聞かせ、その錯覚を追い払うようにして目頭を指で押さえた。
再び目を開いて青年の方を向いた時には、もう青白い光など見えなくなっていた。当然のことでも、男は少しほっとした。
「……谷口智美が誰を恨んでいたって?」
男が眉を中央に寄せて尋ねると、青年は首をことんと右に傾けて何でもないように答えた。
「放火の犯人を、かな」
聞き捨てならないことを言われてしまった。男は眉を上げた。冗談なら性質が悪すぎる。この事件はすでに事故としてカタがついているのだ。それを覆すことをあっさりと言ってくれるではないか。
「この事件が放火だったって言うのか?」
「彼女はそう言ったよ。両親にはそう伝える。彼女の最後の言葉を聞いて教えてくれっていう依頼なんでね」
何が彼女だ。男の頭に血が上った。この部屋には男と青年以外は誰もいなかった。もちろん第三者の声も聞いていない。よくできた演技だと思ったが、その結果として遺族を惑わすようなことを言うことは許せなかった。
「待て! 証拠もないのにそんなこと……」
つい声を荒げた男に対して、青年は煩そうに手を振った。
「そう、幽霊からの証言じゃ証拠にはならないな。でもこれから何か出るかもしれないだろ。彼女にはストーカー被害に遭っていたという事実がある。両親は警察に事件の再調査を依頼するんじゃないか? それか私立探偵でも雇うだろうよ」
その後の展開については気のない様子で、青年は仮説を並べた。その態度が余計に男の気に障った。
「幽霊の証言を信じて? そんな馬鹿げたこと……」
あるはずがない。いや、そんなことあって欲しくはない。死者の声で犯人が特定できるのなら、警察の地道な聞き込みや、発展してきた科学捜査など無用なものとなってしまうのだから。そう思った男の心を見透かしたかのように、青年は皮肉に笑った。
「理解できなくても良いぜ、別に。警察が幽霊の証言信じるようになったら大変だもんな。あんたはあんたの世界で生きな。でも、詐欺行為だとは思うなよ。俺とあんたの世界は違うんだ。それだけのことさ」
決して投げやりではなく、何もかもを理解したうえで“それだけのこと”と言って青年は切り捨てた。それは“あんたには一生理解できない”と言われているようであり、また“あんたは一生理解するべきではない”と言われているようでもあった。男はその言葉に先程までの熱を奪われて、何も言い返すことができなかった。
理解できない。理解したくない。
自分の世界を壊したくない。壊すのが怖い。
壊すものが許せない。
結局はそういうことなのだろうか。男は自問した。
けれど、それでは一生あの子を理解できない。
自分とは別の世界を見て、怖いと泣くあの子を。震える細い体を思い出して、男は余計に肩が重くなったような気がして思わずよろけた。
その男の脇を通って、微かに焦げ臭い部屋から出ようとするすれ違いざま、青年の手がまるで何かを追い払うように男の背中を軽く叩いた。すると不意に肩が重い荷物を下ろしたように軽くなる。そしてそれをすぐに指摘されて、男は何とも形容しがたい思いをすることになった。
「肩が軽くなっただろ? そんなに雑霊背負ってたら、疲れやすくて当然だぜ」
雑霊という言葉にぎょっとして振り返り、自分の肩口を見つめても、もちろん男は何も背負ってなどいなかった。けれど、痛むほど重かった肩が軽くなったという感覚は決して嘘ではなくて。嘘ではないのに、夜の闇の中ではなにもかもが現実味を無くしてしまう。男は自分の肩越しに匂い立つような、嫣然とした笑みを浮かべる青年の姿を見た。
「お休み、刑事さん」
闇に映える唇で優しくそう言葉を紡ぎ、青年は身を翻した。去り際にひらりと振られた白く細い手は、その身より上背のある高校生を四人も投げ飛ばしたとは到底思えないほどに華奢だった。